雑感

山に行くと言って半ば無理矢理に大工の仕事を休んだというのに天気は優れぬ…そうこうするうちにいつの間にかボスの手伝いをすることに。昼飯時、ビール飲んで上機嫌なボスと写真についてつらつらと話をした。


写真に写っているものは何か
写真とは、良い写真とは何か
自分はなにを写したいのか

凡々庸々だが、かといって考えずにはいられない話である。
奥武蔵の廃村だったが、廃村というものに初めて行ったとき、朽ちて藪に没しようとしている家の軒先に、アルバムが落ちていた。急斜面の上の石垣に建っているその家の庭は、、幅が1mくらいしかない。その庭いっぱいに花が植えられ、家族が満面の笑みで写っている写真が落ちていた。ボスと話をしているときにふと浮かんだのはその写真のことだった。
あれこそが、写真のなかの写真たるものではないか、ふと思ったのである。

写真論などではきっと散々に言い尽くされているだろうが、写真の、絵画との最大の差異は時間を写していることで、その時そのことが起きていたことが、写し手の愛情、嫌悪、驚き、欲望、そういった諸々の感情に依った視線の存在とともに物質化された、現実の一葉の証左であるということは何度自覚しても良いことだろう。
時間は、ものをどんどん風化させていく。ただでさえ不確かで、小さな灯火のように頼りない認知などは時間の経過に耐えうるはずもない。その瞬間手にしていたはずの、今ここにあることの確かさ、現実への手応えなどはまったく幻のようで、あの時確かに感じていたはずの、充足や高揚、心地良い疲労と満足感、人の肌や獣の毛並みの感触はどこにいったのか…そのほとんどは曖昧となって、ご都合的に整理された記憶に埋没していく。
写真を撮り、見ることはその瞬く間に失われた確かさと手応えを取り戻す試みと言ってもいいのではないか。
他人が撮った写真では、その確かさは撮影者の視点から奔流のように己に流れ込む。得られた「確かさ」は撮影者にとってみれば全くのお門違いかもしれないし、他人と一緒にその写真を見ていて同じ「確かさ」を共有するとも思えないが、それでもやはり手応えは存在するのであり、さらにいうならその手応えによって己の認知世界が一瞬にして塗り替えられることすらそう珍しいことではない。廃村に置かれていたその写真を見たあと、藪に没していく集落の景色から、撮影当時の、人々が山仕事姿で行き交い、庭には花が植えられ、炊煙が上がる往事の集落の姿を想像すること、撮影者がいかに家族と村を愛していたかを想像することは、そう難しくないだろう。自分が写真からこの上ない驚きと愉悦を感じる瞬間である。


(写真でなくとも、やはり時間が刻み込まれた「痕跡」に自分は惹かれる。例えば、原爆によって人の影が写し取られた銀行の階段、一乗谷の戦火で焼けた寺の礎石。そう考えると案外自分は視線の存在に無頓着なのかもしれない。あの写真を撮ったのが自分であって、部屋の奥隅から数十年ぶりに発見されるのと、今回のように家族自身が撮って廃屋にぽつんと落ちている、その状況によって写真の受け止め方は変わるか、まぁ変わるだろう。どのように?そのへんはおいおい考える。)

…振り返ってみれば凡庸な話だが、やはり写真は構図やヴィジュアルの美しさよりもまず一義に時間なのだ、と胆に命じた、という話でした。