今まで撮り溜めた写真を見返して思ったこと

北井一夫の写真集を買った。「よそ者」であるはずの彼が、対象である村人たちにここまで深く入り込んでいるのかと思わされた。彼が受け入れられていることが被写体になっている人たちの屈託のない笑顔から伝わってくる。そして被写体の人たちの魅力的なこと。撮影者の彼らへの共感というか、もう単に好きというか、そういう感情がないとこんな顔引き出せないだろう。でも、やっぱり徳山たづ子さんなんかの写真とは違って、被写体と撮影者の間にはどこか冷静な一線があるけど、それはそれで関係性の存在の証だし、空港建設という重い現実をほのかに伝えてくる。構図もプリントも、今時のその辺の写真コンクールに出したら選外になりそうなものも結構ある。それでも、ストレートに写真が写真として語りかけてくる力を持っているのが凄い。

自分はこんな写真、とてもじゃないけど撮れんなぁ…と思い、オケでポツポツと撮り溜めた写真を見ると、あれ、みんなリラックスしていい顔してらっしゃる。試しに同じオケの隣人に見せてみると、「このころのオケは沢山魅力的な人たちが居て楽しそうだな〜、新歓でこの写真たち見せたらオケは楽しいところだって新入生に分かってもらえそうですね」といったようなことを言ってくれて、とても嬉しかった。

それは、意外にもこの人達の魅力の欠片を、自分がある程度引き出せていたということの嬉しさ、それと、多くのオケのメンバーが、暴虐の限り?を尽くしていた自分にもこれだけの笑顔を向けてくれた、自分が思うよりも自分のことを信頼してもらえていたということへの嬉しさである。

自分は対人関係というものに全く自信がない。きっちり言動に対して責任を取ることもしてこなかったから集団でどのように扱われているか、全くひやひやもんである(責任に関しては、ほんときっちりしないとなぁ…自己嫌悪を解消するためにも。特に調査先!)。そういう対人不安のなかで、思いがけず写真が、その一瞬だけでもその人と確かな関係性を築いていたことの証になった。そう思うと今まで自分がやってきたこと、されてきたことは、もっと価値のあるものではなかったか、と思えるようになるし、その人たちが好きになれる。もう、みんな大好きだ。同時に、これだけの笑顔を向けてくれたこと、その関係性を如何に自分が無為にしてきたかと思うととても恐ろしくなった。


嫌われることにビクビクするよりも、受け容れられていることに喜びを見出すようにしよう。やっと人を撮ることの面白さと、自分にとっての必要性が分かった。調査先でも、協力してくれた人の写真を撮りながら調査したら、また違う結果になるかも、と思った。やってみよう。