「学校写真」というジャンル

 昨年度の仕事の比率は、アマチュアスポーツ:学校:音楽:web素材・広告≒3.5:3.5:1.5:1.5、といった具合だった。もともと山や風景を撮る仕事がしたかったが、まともな写真を生み出すために費消する時間の膨大さと業界の間口の狭さに、売り込みに行くことすら躊躇い、仕事の量のあるアマチュアスポーツや学校にふらふらと流されてきた。人を撮りたいと思ったことは一度もないのだが、いつの間にか人物を毎年数十万枚単位で撮影し、それなりに撮れるようになってしまっている(スポーツの仕事にはいつの間にか愛着さえ生まれている。コロナの自粛でスポーツの仕事は2月から完全になくなり、今月の第一週に実に5ヶ月ぶりに野球の大会を撮影した際には思わず涙が零れ出たほどだ)。

 ここに来て思うのは、学校写真というジャンルの特異性である。よく言われるのが、「学校写真には全ての要素がある」。確かに、スナップから簡易なスタジオ撮影、式典、スポーツ、音楽、集合写真、ちょっとした物撮りとやることは多い。しかしそれ故か、スポーツや音楽、物撮り、建築のときのような、ひたすら構図やライティングを追い込み、研究しブラッシュアップしていくような感覚は得にくい。

 学校運営が優先されることと、アルバムとして仕上げる際は写真を大胆にトリミングしていく場合が多いので、全ての状況に妥協が付きまとう。もちろん、プロとして仕事をしていく上でどんな仕事にも時間の制限はあり、どこまで追い込みどこで妥協するかを判断するのも技術の一つだ。しかし、それにしても……と思うことは多い。例外的なのは証明写真だろうか。数百人をわずかな時間でひたすら同じライティング、同じ構図で撮っていく仕事だが、人の姿勢の癖を即座に見抜いて正対を作り出す技術は磨ける(正対を即座に把握するのはカメラマンの大事な技術だ)。

 

 得られるものがない、ということはあまり技術保持と精神に良いものではなく、どうも学校写真の現場を立て続けにこなしていると写真が荒れていくような気がしてならない。これからもここ茨城の土地でこの稼業を続けていくなら学校写真と完全に縁を切ることは難しいだろうし、子どもたちと交わるのはむしろ好きな性質だが、一歩立ち位置を退いておかないと技術的に磨り減るばかりなのでは、という予感がある。