人のところに書込もうとしたら文字大杉って言われたのでとりあえず自分のところに貼る>tanu

自分は悪い子、もといグータラなのでちと異議ありです。

自分を思い返してみると、自分が人間的に向上したなって思うときと、音楽的に充実して、内面的に音楽性が向上したと感じるときは大体一致しなくて、むしろ反比例している。それは、音楽というものが基本的に「欲求」の上に成り立っているからだと思う。音楽をせずにはいられない、そう思うのは心が大きく揺れるとき、楽しいときもあるだろうけど、自分の場合悲しかったり、辛かったり、どす黒い醜い感情だったりすることが多いです。だからなんか満たされているとだめみたいなんすね。

内面的に上達する、というのはこういう欲求を維持し、多様なものにし、洗練されたものにしていくことではないかと。その場まかせの感情ではいつも音楽することはできないわけで、そうした感情の記憶を頼りに曲と向かいあうことで音楽性、というものを各々が構築していくんだと思います。そのための経験だから、それが一般に言われる意味で多様で人生において豊かである必要は全くないわけで。それがその人にとって、もっともよいインスピレーションであればいいわけです。場合によっては孤独も、妄執も、自己陶酔も立派なインスピレーションのもとになります。だからこそグレン・グールドのようにライブやらずに引きこもって作られた音楽も立派な音楽になりうるのではないでしょうか。


ていうことで、確かに音楽はけじろの言うとおり全人的ではあるけれど、それが社会的に完成された人間である必要は全くない。むしろ、そういう人は満足してしまって足りない何かを求めることは少ない分、音楽はやりにくいのではないでしょうか。作曲家と演奏家の役割がかなり違うことを了解の上で、どちらも音楽に携わる人としてみれば、音楽やっている人に人間的においおい、という人はたくさんいますよ。

インプットは大事だけど、それをどう処理し、アウトプットするかで音楽の質が決まる。極論ですが感性という処理野を磨いていて、アウトプットが上手くできるのなら大した刺激は必要じゃなくて、毎日の天気をネタにでも音楽ができるのではないかと。

なんかよくわからなくなってきたのでまとめちゃうと、起爆剤=感情の揺らぎのもととなるもの、それをサルベージする能力、インプットされた情報に対する感情の感度の良さ(この二つは区別しにくいけど)、それを常に一定のクオリティ以上で表現できる能力、これらをよく投入して、肥料をやって維持し、日々磨くことが上達への道ってことなのかな。


…あとで読み返してみて人のところに貼らなくて良かったと思う。