Lachrimae

Lachrimae

Andre MehmariのCANTOというアルバムを聴いたのだが、はまぞうになかったので、唯一あった彼のCDで代用。

攻殻機動隊Stand alone complex)のオープニングにinner UNIVERSEという曲があったが、まさにこのアルバムにはその言葉がぴったりだ。多重録音によって彼が演奏する数えるのも面倒なほど多くの楽器の音によって紡ぎだされる音楽は、深みを持った一つ「宇宙」であり、空間性をもった(ある時は広く、ある時は深く、ある時は狭く)イメージの世界を感じる。そしてそれは宇宙のなかで、宇宙全体、俯瞰、部屋の片隅、街角(ブラジルの、無国籍の)、個人の夢、エートスのような漂うものの中と、様々な次元と場所で歌われる。だがそれは交響曲のように固定化された、予定されたものではなく、人が思索や空想を「今」しているような、決して論理的、説得的でない、イメージが泉からわき出てくるような自由な音である。ふとこぼれたイメージのかけらが音楽になってしまった。そんな音楽だ。そのこぼれたかけらはあまりにも美しい。彼はそれを恐ろしい器楽と声楽の才能で具現化してしまう。これだけ世界としての様相を備えた美しいイメージが秘められており、それを我々に「世界」として聴かせてしまう彼は、一体どんな人間なのだろう。


・・・ここまで素晴らしいものを聴いてしまうと、アンサンブルって何なんだろうと考えてしまう。とりあえずソロよりもアンサンブルが良い音楽を生み出せる、他人との交流がより良い音楽を作り出す、というイデオロギーはこの際捨て去るべきだろう(もちろんソロがアンサンブルよりも良いものを作り出せるといっているわけではない)。僕が育ってきた音楽環境は、吹奏楽管弦楽という、アンサンブルが前提となるところであったせいか、ソロよりもアンサンブルを尊重する「集団主義者」が多かったような気がしてならない。それは、単音しか出せない管楽器のソロで多様な表現を創り出すのは難しいということに加え、ソロが鼻持ちならない自己主張と受け取られかねない危険性をはらんでいるからであるように思う(まあ、僕がこうしたソロしかしていなかったからということも大いにあるが、僕個人に対して、というよりは風潮として、ということだ)。確かに自己顕示欲丸出しのソロほど聴くに堪えないものはなく、彼のように一つの小宇宙を構築してしまうようなソロを演奏するのは技術的にも精神的にも至難の業だ。だが、自己を深化させ続けることでしか作り出せ得ない宇宙が確かにあることを、このアルバムは簡単に教えてくれる(まあこのアルバムを聴くまでもなく、それは幾つかのピアノ音楽やオルガン音楽によって十二分に立証されていると思うのだが)。それは集団主義者はおろか、「個人主義者」にも創り出せないことは確かだろう。個人主義者という言葉をきちんと理解しているわけではないが、個人主義というのは集団性あってのものだねだからである。ここで聴ける彼の個は「個にして全」であって、集団と対比されるようなものではない。

同様に、良いアンサンブルを生み出すことは「集団主義者」にとって至難の業であると思う。アンサンブルが「聴ける」のは、オルフェウスのように個として完成したプレーヤー同士が有機的結びつきをもって緊密な演奏を繰り広げる、すなわち世界と世界が衝突し、融合し、もしくは変ななんとか反応を起こして未知のものに変わるような演奏か、一人一人が個を捨て去り、全が全として、つまり一つの世界として存在する時のみではないか。そのどちらにもなれないアンサンブルはこの独りの宇宙に到底かなわない。中途半端な世界と、中途半端な調和は聴くに堪えない。
その分け目というのは奏者が発信しているものが主張であるか、世界であるかにあると思う。聴衆に訴えかける音楽よりも、そこに在り、広がり、聴衆を魅了し、包みこんでしまうような世界を創り出せる音楽に、僕は感動しているのではと思う。