都響&デプリースト

20日都響の定演に行ってきた。演目はショスタコーヴィチの第8交響曲シュニトケの「ハイドンモーツァルト」であった。都響の音楽への姿勢とチケットの安さ(こっちの方がでかいか…)に釣られて、ちょくちょく演奏会に行くようになってから早1年近く経つが、冠たる常任指揮者であるデプリーストの指揮で演奏を聴くのは実は初めてだった。決してデプリーストの演目に面白みを感じないわけではないのだが、何故か縁遠かったのだ。

今までの都響のコンサートの中で一番感動が少なかったが、一番考えさせられ、後味を引くものだった。まぁ、曲が曲だし…素直な感動を聴衆に誘うものではない。今まで第8交響曲というのは何度聴いてもあまり記憶に残らず、あまつさえ10番と混同してしまったりもしていた。だが、今回の演奏では判然としない、歯切れの悪い、何かすっきりしない、疑念へと導かれるような感覚が残り、数日経った今もくすぶっている。それは感覚に直接訴えかけるというより、理性と感覚の橋渡しを担う部分(そんなものがあればの話だが)に何かを訴えかけてくる質のものだ。この感覚のようなものは、デプリーストが考える第8交響曲の核心を成すもので、恐らく僕らに伝えたかったものに違いないという確信に近い思いを抱かせてくれる。


デプリーストに導かれた団員の演奏は、今まで聴いた中で技術的には最高レヴェルのものだった。整然としている。音色も澄んでいるように感じる。色でいうなら、青みがかった、無理矢理フィルムで言うならコダクロームだろうか…。そして初めてショスタコーヴィチの演奏を荘厳、厳粛に満ちていると感じた。まさかショスタコーヴィチの曲でそんな風に感じるとは…彼の曲を聴くとき、常に想起されるのは共産主義の嵐と、それに対峙、もしくはのまれざるを得なかったショスタコーヴィチ自身の葛藤、時に堤防を切ったような感情の氾濫だ。ところが今回の演奏はそういう、人文的なものを超えた何かそのものを感じさせた。ある意味、マーラーの9番やブルックナーの9番が達したよりも深いところにある何かをえぐり出すような…

先月は「1905年」とアルプス交響曲でインバル&都響の演奏を聴いたが、デプリーストとインバルは本当に好対照な指揮者だと感じた。インバルは思ったよりもずっと楽天的で、人間が好きそうで、素直に曲を解釈していた。もちろん、「経年変化」はあるのだろうが。縦横で言えば横重視。
1905年の二楽章の盛り上げと、ホールそのものが鳴っているかのような、畳みかけるかのようなフォルテは身震いした。革命歌のパッチワークというこの曲の一面を強く意識させ、当時のロシアに紛れ込んだような、リアルな感情と人間臭さを与えてくれた。でも、オケはなんかモヤモヤしてた…
アルプス交響曲は、本当にシンプルで、ただ「ピクニック楽しいなー」、それだけ。超の付く大編成だし、ついつい勿体ぶった演奏をしてしまうことが多そうな曲だが、そのシンプルさ、純粋な感情にすごくシンクロできた。反面、大編成、かつリヒャルトならではの色彩感や構築感?は…
インバルと言えばマーラーだが、人間臭さに溢れた、内面世界の迷路のようなマーラーに親しんできたからこその上2つの演奏なのだろうか。それと、都響は彼に遠慮しているというか、素直に楽しみきれていないような気がした。まぁ、7年振りだし、世界的指揮者だし…とその時は思ったが、それだけではないような気もする。

対してデプリーストは、どこか醒めている。他者を無条件には愛していないし、見つめているのも、人間の先、宗教や哲学のテーマであったり、物理学者が考えそうなことであったりしそうだ。いや、もっと深い、自分があずかり知らぬ領域なのか…。テクニックや縦も、明晰なアンサンブルを重視する(この辺はアメリカのオケの土壌を思わせる)。オケの彼に対する信頼感をひしひしと感じた。


とりあえず言えるのは、デプリーストの演奏会には女の子と行かないほうがいいんじゃないかってことです。


あと、配布されるビラの中に、急遽挟み込んだであろう、シュニトケでソロを務めるコンサートマスター、2ndヴァイオリントップの、彼らなりの解釈と、それをデプリーストに伝え、練り上げた経緯が記載された紙が入っていた。残念なことに演奏会後に気付いた(演奏はそれを読まずとも十分に楽しめるものだったけど)のだが、納得したり反論したくなったり…こちらも動かされる。こんな風に団員がポジティヴに動く都響が大好きだ。