ふと思い出すこと

何かにつけ思い出すのは、山で路に迷ったり、遭難しそうになったり、予定の行動をこなせずに道半ばで日暮れが来てしまったりするときの、森の中の木々の無表情さというか、自分が普段存在している次元との違いを感じることである。沢のせせらぎの音も、妙に大きく、不安な音に感じたりする。遭難するかも、もしかしたら死ぬかも知れない、という時に森は、自分の状況とは関係なく、ただそこにある。だけど、全く無関係というわけではなく、木々に見つめられているような感覚、というより錯覚?を感じもする。かといって自分がそこで死んだからと行ってそこには化学的変化以外は何の変化も起きない。森はただそこにあり続ける。
それは、普段行為や言動を行えば他者のリターンがある社会のなかで生きていることをさも当たり前のように思っている、生に過剰な意味づけをしないと生きていけない社会、そして自分にとって、ある意味強烈なカウンターなのかも知れない。

だからかどうかは分からないが、その感覚を思い出すと何だか生きようというやる気?が静かに湧いてくるし、また山に行きたくなる。