バスケットボールと交響曲

 スポーツの撮影を始めてから3年と半年が経った。瞬間瞬間に判断しながら絵を紡ぎ出していく過程は、どこかジャズのアドリブ演奏で使っている脳みそと似たようなところを使うように感じている。プレーが譜面、あるいはテーマで、機材は楽器、カメラマンが奏者とも取れるし、どこか音楽と重なる部分があるなと思う(これを言えば、被写体・機材・撮影者という構図は何を撮っても変わらないのだから写真そのものがそうだと言うことになってしまうが、やはりスポーツのときに強く思い起こす)。

 世間はクリスマスさなかの3日間、ひたすらバスケットボールの試合を撮り続ける仕事に就いていた。レベルの高い大会なので、何度も競り合い、見ているこちらがひりつくような逆転劇が幾度も起きる。
1点差、最後のちょっとしたミスやラッキーで勝敗が決まることも稀ではないのだが、度々そうした試合を見ていると、そこに偶然はなく残酷なまでの必然しかないように思えてくる。バスケのような時間が予め決まっている競技は、第一クォーターから勝ちへの軌跡を描いて、終幕の勝利目指してプレーを積み重ねていかないといけない。好プレーもミスも全てが蓄積され、終盤になればなるほど未来が分岐していく可能性は狭まり、現実は残酷に突きつけられていく。

唐突に聞こえるかもしれないが、その過程はどことなく交響曲の演奏を連想させるなというのが今日の感想だった。
まずこじつけっぽくはあるが、クォーターは4つ、交響曲も楽章が4つ(のものが大半)。時間もまた、一試合が70分くらい、重めの交響曲とほぼ一緒だ。形式的に想起させるというのがまずは一つ。
そして、全体デザインの話。楽章というのは結構厄介な代物で、楽章間の構成やパワーバランスはかなり繊細に扱わないと曲全体が意味を失うと思っている。
逆に言えば、楽章間の関係を適切に扱えば非常に印象的な演奏になるということでもあり、交響曲を上手く振る指揮者は、そこが実に巧みだ。敢えて長大な第1楽章をあっさりと振ったり、スケルツォを歌い込んだり、一見クライマックスに思える山場でも抑制を効かせたり、終幕という到達点で聴衆が最高の充足を得られるよう、綿密な計算のもとににタクトを振る。近視眼的にフレーズに振り回されていては、聴衆は膨大な時間のなかで迷子になってしまい、物語を、フィナーレまでの道標を見失ってしまう。

ゴール間を行き来する絶え間ない反復は、よく見ていけば同じものはそうそうない。撮り逃したシーンをもう一度と思ってもそれは容易に再現されない。テーマが発展、あるいは弁証法的に再現・展開されるソナタ形式を思い起こさせる。それらは前言のように、全て最終の勝利、あるいは敗北に向けて蓄積される。場当たり的なプレーやミスによる綻びは時間を逼迫して終章への道筋を途絶えさせる。

若人の、荒々しくも美しいプレーと、試合が進むにつれ真綿のように締まっていく可能性を目の当たりにしながら、頭のなかに流れていたBGMは、静謐なマーラーの第四交響曲だった。第三交響曲で一つの絶頂に達したマーラーは、この曲で此世と天国を対置し、メルヒェン性と死の予感を接続させた。時間との戦いであるバスケの熱戦を観戦しながら、終末を予兆、あるいは物語の終わりを描くようなこの曲が脳裏に浮かんだのは偶然ではないと思う。