いわきに行ってきた

モタモタしているうちに時間が経過してしまい、今情報をまとめる意味はあるかどうか微妙なところだけど、報告も兼ねて書き留めておく。


先月22日夜、つくばでもようやくガソリンが1時間弱の待ち時間で入れられるようになり、十分な量のガソリンが確保できたのを受けて、いわきの友人に支援を打診する。まだまだいわきは物資が不足しており、また彼も仕事を抜けて対応してくれるとのことで、彼への差し入れと支援物資を持って会いにいくことにした。車にいそいそと生命維持装備(普段使っている山道具と水、食糧のこと)、ガソリン携行缶、修理工具などのいざという時のもの、そしてカメラ一式を積み込んでいるうちに夜が明ける。
翌日、我が家に生活系の余剰物資はほぼ皆無なので、お店の開店を待ってティッシュ、トイレットペーパー、消毒薬、缶詰などの食糧、石鹸などなど、友人への差し入れと併せて1万数千円くらいを手当たり次第に買い出し。平競輪場に設けられているいわき市の物資受入場に何が不足しているか問い合わせたところ、シャンプーなどの洗面用品がまず不足しているとのことだったが、自分の懐に見合う安価なものがなく(それに被災地の人にとっては、あるかないか分からないようなヴィダルサ○ーン的な付加価値よりも量の方が重要だろうし)、石鹸のみとさせてもらった。つくばはここ数日でガソリン以外の日用品物資の供給はほぼ回復し、品薄だったカップ麺や缶詰なども手に入るようになってきた。(→4/3追記)他に、同行者が持ってきてくれたポケットティッシュ100個くらい、自分の実家から持ってきてもらったタオル50枚くらいを積み込む(了)。思いの外時間がかかり、荒川沖のジョイフル本田を出発したのが12時45分。
1時半、伯楽寮の偉大なる先輩、石岡のguchi_さん宅に到着、慌ただしく支援物資として提供して頂いたストーブ(かなりきれい!)と灯油、おむつ、カセットコンロ、水などを積み込み、出発。石岡も道路や建物に少なからず被害が出ているが、guchi_さん自身はお元気そうで、自宅の被害も幸いに軽微だったとのこと。3時の待ち合わせまで全く時間がないので泣く泣く高速に乗る。岩間ICまでの道のりにも、道路が深刻なダメージを受けている場所が何カ所かあった。

常磐道は至る所、段差とひび割れだった。数えていたわけではないが、10や20といった数ではない。路肩が崩落している箇所や、車線規制を行っている箇所もあった。水戸―那珂間はとくに痛みが顕著。福島県内はむしろ損傷少なかったように思う。中郷SAは災害支援車両用に貸し切りだった。

いわき中央IC料金所で、料金を支払おうとしたところ、緊急避難であるかどうかを係員のおじさんに訊かれる。支援物資持ってきた、と言ったら嬉しいことにフリーパスだった。49号バイパスはいつも仕事で通るときと景色も、車の台数も別段変わりない感じだ。県合同庁舎で友人と待ち合わせる。市役所、県合同庁舎ともに一部窓ガラスが割れて、そのままになっている。内部の資料棚などが傾き、片付けが追いつかない状況が見て取れる。駐車場では水道管が損傷しているのか、水が吹き出てたままになっている。


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(写真は市庁舎。あいも変わらず浜通りの空はすっきりしている。)

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目の前の銀行や歩道には顕著なダメージがあった。

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近隣のスーパー、ツルハドラッグ、そして浜通りが誇るマルトはいずれも商品の供給がないとのことで既に閉店していた。

友人と合流し、まず一括していわき市への支援物資を受け入れている平競輪場へと向かう。

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(こんな感じの物資の列が100m以上続いている。)

構内にはかなりの物資が集まっているように見えるが、いわき市民34万人のうちどれくらいが市内に残り、また避難生活を送っているか分からないのと、そもそも一人の人間が必要とする物資の具体的な量が思い浮かばないので、この量で十分かどうかは分からない。自分の支援物資は多ジャンルのものがごちゃ混ぜになっていたが、整理は職員さんでしてくれるとのこと。我が家ほぼ唯一の余剰物資で、受け入れてもらえるかどうか不安だった携帯ガスバーナー用(こんなやつ)のガスボンベ十数缶も、「まぁあれば使うかも…」ということで寄付してきた。

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(我々の物資を検品している職員さん)

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(こんな感じで列に加わった)

対応してくれた職員さんによると、24時間対応で物資を受け入れており、約半数のスタッフがボランティアであるとのことだった。また、市のHPによれば、物資を各避難所などに配送するボランティアは十分な人数の応募があり、募集を締め切っていた。


すでに時間は5時を回っていたが、友人の運転と案内で、いわき市でもっとも津波の被害が大きかった地域のうち、自動車での通行が可能である豊間地区へ向かう。途中、田んぼが海水に浸っていたり、道路がダメージを受けていたり、自衛隊の車両が行き交ったりと、被災地であることを思い知らせてくれる。

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県道15号を南下、案内表示板に塩屋崎灯台の文字をみて、道を折れる。海から400〜500mくらい手前の場所で、道は通行止めになっていた。

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大きな地図で見る

場所はこの辺。



県道に戻り、さらに南下する。

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橋の欄干が流失しており、少なくともこれより高く、鋼鉄をへし折る強さの津波が来たことが分かる。


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切れた電線などもそのままになっている。

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放棄された車をたくさん目にした。

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場所はこの辺。


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県道は住宅の庭を通過するようなかたちで通行が保たれている箇所もあった。
この後江名地区、小名浜と回って平に戻ったが、日暮れを回ってしまったため、写真はあまりない。それらの地域は、港湾設備や防波堤、護岸などがある場所が多く、全壊している建物も少なからずあるものの、豊間に比べれば津波の被害は軽そうだった。撮影可能時間はわずか数十分だったが、津波の被害を垣間見るには十分だった。

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(江名の目抜き通り)


車中での友人の話…
双葉町のスタッフが逃げ出してしまった病院から、重病患者を観光バスでいわき市内の避難所に搬送したが、医療が施せるわけでもなく、次々と亡くなっていった。
・復興にとりかかろうにも、業者の多くが避難してしまい、作業に着手できない。公務員でも逃げてしまった人がいるとのこと。(4/2追記)報道機関も逃げた。
・いわきの遺体安置所は3カ所。いまだラジオで安否確認の情報が流れ続けている。
・湯本の温泉が止まっている。水位が下がったのではないか。

差し入れを届けた彼の自宅は、まだ水道、ガスは復旧していなかった。帰りの街灯りは普段生活している友人から見てもかなり暗いようで、かなりの人が市外に避難しているのかもしれない。ただ、運行再開して間もない高速バスとすれ違ったが、増発車を連れていて、いずれも満員だった。原発の冷却が一定の成果を上げたことを受けて、一時避難していた人が街に戻りつつあるのかもしれない。
友人と19時半に別れる。中郷SAで休息をとりつつ、23時つくばの自宅着。
25日にもらったメールでは友人宅の水道、ガスが復旧、平などの市街地では車やトラックの通行が増えたり、工場の復旧が始まったりと、街が元に戻り始めた気配を感じるとのことだったが、一方で沿岸部はまだ手つかずのままだそうだ。