大地の歌をさらってみる

予想に反して、アルベニス、それもイベリアを模倣したかのような書法がちらほらと出てくる(=とても厄介)。複雑な内声、跳躍、多声、手のクロスオーバー、嵐のような臨時記号(転調しているのにその前の調号のまま突き進むことも一因)…うぎゃー。思わぬところでセヴラックとアルベニスの結びつきを実感。彼らは仲が良かったらしい。ナバーラの最後をセヴラックが書いたのは有名だが、「セルダーニャ」にはアルベニスが祭にひょっこり居るシーンも…「ここであの人は、親愛なるアルベニスに出会う」(セヴラックの曲には随所にこんなサブタイトルがある)。


…3曲目の「雹」の中間部で、ちょっと穏やかな部分があるのだが、そこには「祈願行列」に続いて「弔鐘」とサブタイトルが。注を見ると、「ピレネーのいくつかの地方では、嵐の間、とむらいの鐘を鳴らす風習がある」と書いてあるではないか。暴風が(ここでは雹だけど)吹きすさぶ中、人影のない村に4度で打ち鳴らされる鐘が響き渡る…その凄味のある光景を思い浮かべたら鳥肌がちょっとの間止まらなくなった。今度はピレネーに、嵐の中鳴り響く弔鐘を聴きに行こう。祈願行列っていうのも気になるな。

しかし、この大地の歌や水浴びをする女たちなどはとくにそうなのだが、セヴラックの音楽は印象派や後期国民楽派によく見られる描写的な音楽のなかでも、対象との距離がもっとも近いように思える。というより次元が違う。ドビュッシーのように行ったことのないインドネシアの寺院跡を妄想したり、ヴォーン・ウィリアムズのようにパノラマ描写をしたりするのとはわけが違う。対象はすぐそこ、もう数メートルの距離に居るように思わせてくれる。