今日の読売1面

JR東海会長、葛西敬之のコラムが載っている。岩国市の基地機能増強反対、岩国移駐の撤回を求める姿勢を批判して、安保闘争第二次世界大戦のフランスの姿勢を例に出して、国策、もしくは国レベルの「民意」(彼は前半と後半で言い換えを行っている)をないがしろにして少数者、一部の者の「民意」を尊重することは、「時に全体の利益を著しく損ないうる」。

安保闘争では反対派が「響きのよい『等距離外交』、『非武装中立』論で一般大衆の気を引き、次には激しい街頭デモを組織して少数の力を誇大に示威した。」そうで、反対派がそもそも少数者であったかどうかはさておき、この「少数派」による活動がどのように全体の利益を損ねたのか、全く書かれていない。そして「彼らが最後に用いたのが、『少数意見の尊重こそが民主主義の前提』とか、『野党の了解なしに採決する強行採決は非民主的である』という詭弁だった。」という。確かに「だから俺らの意見を受け入れろ」という強引なやりとりがある時これは詭弁だが、衆愚政治とか大政翼賛という言葉をこの人は知らないのだろうか。

フランスの例にしても、「フランス軍がドイツ軍の進撃を遅らせるために橋梁に仕掛けておいた爆薬のヒューズを村人が切断してしまった」例を挙げて、自分たちの利益=「家や店舗」を守りたいという気持ちが「全体の利益」=フランス国家の存亡を著しく損なったと主張している。では、葛西さんは国家のために村人たちに戦闘に巻き込まれて家財を破壊され、死ねとおっしゃる?フランスと、こうした姿勢と対極的な姿勢を取った日本とが、戦後どのような歴史を辿ったかを見れば、フランス人の選択はあながち間違いでもないことは明らかではないだろうか。
国家がなくとも我々は生きていけるが、死んだら元も子もない。

「国民の意志」は「市民の意志」(俺は市民と言う言葉が大嫌いだが)の上に成り立つだろう、が、相対的な「国民の意志」というものが存在するということ自体が幻想ではないだろうか。その幻想を乗り越えてしゃにむにでも「国策」をまとめなければいけないところに国民の意志の矛盾と限界がある、ということは当たり前のように思っていたが。

こういう人が社長やってたからJR東海大垣夜行とかローカル線をどんどん切るんだね。一部の弱者の意見なんてどうでもいいから、需要があって会社もボロ儲けの新幹線だけどんどん増強していればいいわけだ。300系以降、居住性は二の次な新幹線ばかりだしね。この人は自分が少数者、民主主義における弱者になったら、という想像ができないように見受けられる。こういう人の隣に基地作ると政府もさぞかし楽だろう。

もっぱら香ばしいのは朝日と言われているけど、読売も色々香ばしくて面白い。