帰国

無事帰国しました。移動が多く、一つの地域をじっくり見るのが好きな自分にはちょっと忙しい旅行でしたが、その割に得るものは得てこれたかと。アメリカを自分の五感で知ることができたことはもちろん、ちょっと自分が成長できたような気がします。
アメリカという国を自分がどのように見て、どのように感じたかはまた後で旅行記というかたちで(とくに「危険なアメリカ」と「貧しい人たち」に対しては大きなイメージの転換がありました)書くとして、ちょっと自分の内面変化について。

対人関係において、前よりもずっとポジティブになれたようです。大きかったのは、院の巡検で、自分と5歳から10歳以上も年の離れている人たちとじっくり話しができる機会があったこと。道を拓こうと頑張っている人とふれあい、非常に非常に啓発された。今まで何をやるのも手探りだったが、道が照らされたような思いだった。これからはどんどん上の人たちに食いついていこうと思う。アメリカの大学、UCB、UCLA、そしてUniversity of Kentuckyの三つに行ったが、やはり大きく啓発された。もう筑波は嫌!(笑)それだけでなく、旅先の日本人や、現地の人たちとも結構長い時間話す機会があったこともとても大きい。アメリカ流コミュニケーションはいい。誰もが気軽に人に話し掛け、同じ場所を共有している。話をしなくても、なんとなく親和感が生まれる(もちろん個人差はある。アムトラックでは結構嫌な思いもした。)。成田空港から京成線に乗ったときは、思わず「みんな自閉症だ!」と心のなかで叫んでしまった。この「障壁」はいったい何なのだろう。

何だかもっと楽しく生きられるような気がする。

それと、たくさんの動物たちに会えたこと。それでどう内面がどう変わったかというと、地球の歩き方国立公園編に引用されていたネイティブ・アメリカンのチーフ・シアトル(シアトルの地名のもととなった人ですね)の言葉で、「もし地上から動物たちが消えてしまったら、私たち人間は孤独のあまり死んでしまうだろう」という言葉があったわけで。そして自分は星野道夫が好なのだが、彼もまたイヌイットを含むネイティブ・アメリカンの世界観、宗教観への賛同者といって差し支えない。今まで彼らの思想に「ふむふむ」と思いながらも、実感として理解できず、なんとなくオーバーだなあ・・・とすら感じていた。それを片鱗にせよ実感し、理解できたことが嬉しい。トレイル沿いでは満開の花の中、遊びまわる地リスやネズミが沢山いたし、マウンテンゴートがふらりとどこからか現れ、いつのまにか自分のほんの2メートル手前まで来て、自分を見つめながら草を食っていた。遠目にだがグリズリーも見た。彼らは日本(北海道はわからないけど)の動物たちよりも怯えておらず、悠々と、楽しそうに暮らしているように見えたし、より大きな懐に抱かれているようにも見えた。ネイティブ・アメリカンの多くの種族が動物たちを崇め、自分たちの先祖とし、親しみを持っていたということに素直に納得が行くのである。
日本の自然、台湾の自然、イギリスの自然、アメリカの自然、全て皆違う。当たり前といえば当たり前なのだが、その中に入ったときに感じるプレッシャーといおうか、感覚が違うのである。日本の自然は多様性において、自分が行ったどの国よりも勝っているし、他の国にはない、自分を押し包んでくれるような感覚があるのだが、ふと得体の知れない闇のようなものを感じるし、時にこのうえなく恐ろしい。グレイシャーナショナルパークは最も豊かで広く、最も優しいような気がした。
さらに追記するなら、アメリカの荒野はどことなく荒野らしくない。自分が思う「荒野らしい」というのは、そこにたつとこの上ない寂寥感を感じることなのだが、カリフォルニアやニューメキシコの砂漠にせよ、モンタナの大平原にせよ、そこに立ってもあまり寂しくないのだ。逆にイリノイミネソタの半分畑や牧草地で、半分荒地のようなところの方がどうしようもない孤独感を覚える。


一つひっかかっているのは、イギリス旅行で味わうことが出来た充実感が味わえなかったこと。イギリス旅行のときはアメリカの時よりも英語が出来なかったし、知り合いもおらず天涯孤独(最後の3日間with I井さんを除く)、行程も山歩きと自転車だらけで最高にハード、飯がもともとまずいのに加え食料調達もろくにできずボロボロの状態だったのに、居ることが最高に楽しくて、まだ帰りたくないなあ・・・とどんどん前に進みたくなる旅行だった。だがアメリカでは、飯もそれなりに食い、行程も交通機関での移動が主、それにも関わらずちょっと何かあるとすぐ日本語や白米が恋しくなった(ちなみに飛行機から日本の田や林、街を見て感動し、実際に降りて電車に乗ったらがっかり、というか閉塞感を覚えたのは一緒だ)。だが、今回得たような内面の転換は、イギリスでは(イギリス人も同じように、いやもしかしたらもっとフランクなのにも関わらず)なかったものだ。自分はきっとヨーロッパ世界、非アメリカ、非大陸的空間が好きなんだという結論を出すことは簡単だが、このひっかかりはじっくり考えてみる必要があるのでは、と思う。