「自由主義」についてネット上の文章でちょこちょこ調べていたけれど

上の『自殺論』に関する文章も自由主義に関するところが少なくないと思うが、なんか勇気付けられたし、今までの俺の行動やら思考過程が「自由主義」を求め、そして見失って、近々ようやくもう一回やってみっか、という方向で説明できることに気付く。うん、俺は「自由」でありたい。同時に、自分の性格や能力やら、もともと帰属する地域や組織がないやらで、今の世の中で社会的存在になることは難しい。それでも悪く言えば社会的落ちこぼれ、良く言えばアウトサイダーだから出来る、見えることもあるのではないか。
同時に、この社会の「内と外」という概念も重要だ。半ば外に居ると自覚できるということは、世の中に規範というか、雰囲気というか、そういうものによって規定されている社会の構成壁が(もちろん一枚ではなく多層的に、様々な広さと強さで)まだあることが認められる状態にあるということで、自分が「外」に居ると立ち位置を規定できるわけだし、世相としても絶望的な状態ではないということだ。一時期の自分にはその壁や壁に囲まれた領域すら見えなくなっていた。俺がまだ内側に居る領域もあるはずだし、それがどういうものなのか問い正していくのがこれからの課題なのだろう。


…例えば個人的なことではあるけど、上の倹約なんかも結果として自分の「自由」を「規定」する役割を担えたからこそ、自分が前向きになれたのだろう。それと、脱アノミー