世界を拡げろ

認識は主観からしか拡げることができない。その意味に置いては安直に社会論やべき論を振りかざす前に自分の言動が、自分の(往々にして短期的な)利益を得ようとしているものでないか、チェックする必要は大いにある。でも、べき論や社会論は、それはそれで必要ではないかと思うのですよ。たとえそれが主観から立脚していて、個人の利益を得ようとするものであっても、それが他人によって支持され、その過程できちんと止揚され続けていくのであれば、もうそれは個人の欲求とは別ものではないかと。
どうも上の世代の人たちがべき論振りかざし過ぎてきたせいか、俺自身が浮ついたべき論振り回して疲れちゃったせいかどうか分からないけど、俺の回りにいる人たちは大だんびら振り回すようなべき論や社会論にはアレルギー反応があるような気がする。まぁそりゃそうなんだが、やっぱり同調したり反駁したり運動したりしてみたいんである。色んな価値観あるんだねー、では衆愚政治になるのは目に見えていると思うし、中途半端な多元主義というのは結局分裂した個人を量産するだけだ。そういう意味じゃ多元主義だってある程度の到達点が必要だ。その「到達点」が個々人の利益をごり押しすることだったら、それは利益の食い合いをもたらすに過ぎないし、感情論としてもちと悲しい。個々人の利権でしか動かない政治は、長期的な視点を失っていくだろうし、何かを変えたり、大きなことをやるにはやっぱり複数人の運動が必要だ。

ある個人の全ての行動は自身の利益に還元される、ってドライな考え方するようになっていたけど、義憤とか助け合いっていうのはやっぱりあると思いたい。と、住環境が変わったせいか、問題を共有できる人間が居なくなってしまったせいか、どうか分からないけど、環境問題や公の仕事に関心の持てなくなってきた自分が言ってみる。というよりも観察できればそれでいいや、というように興味の持ち方が変わってしまったように思える。現状を変えてやる!みたいな気概がいつの間にかどっかに行ってしまってる。